AIに負けない子どもたち

◎AIの進出
AIの進出がめざましいが、これまでの技術革新と一線を画すのはその影響力が計り知れないことである。AIの出現で特定の職業が無くなるのではなく、単純作業をAIが肩代わりすることにより多くの分野で必要労働力が減少してゆく。

人工知能の権威であるレイ・カーツワイル博士はかつてシンギュラリティ(人工知能が発達し、人間の知性を超えることによって、人間の生活に大きな変化が起こるという概念)がやってくると予想した。シンギュラリティの到来により人々の生活は一変するはずだが、本当にそのような時代がやってくるのか、その真偽のほどは定かではない。

ただ、未来の子どもたちに必要な教育は現在のような、暗記した成果を吐き出す、というような単純なものではないはずだ。

日本人の教育観の根底には「努力すればみんなある程度できるようになる」という意識がある。そして、多くの日本人が努力を美徳と感じ、奨励する。だから、日本人は努力の跡が見えやすい「テストの点数」にこだわるのかもしれない。ただ、テストの点数が高いだけ=暗記力があるだけの人間であればAIと変わらないわけで、労働力としては無価値である。


◎人間の強みは曖昧を受け入れられること

そもそもAIができることは限られていて、数学者の新井紀子によれば数学的に表現できない事項はAIが実行できないようだ(参考:『AI vs 教科書が読めない子どもたち』)。将棋の分野にAI技術が進出して久しいが、将棋の場面でも確かにそのことは感じる。

例えば、将棋では3つの力が必要になるといわれている。膨大な定跡を覚える「暗記力(序盤)」、対局相手の呼吸を感じ方向性を定める「構想力(中盤)」、正解に詰みを読みきる「計算力(終盤)」である。当然のことながら「暗記力」と「計算力」では人間はAIには及ばない。人間が対抗できるのは中盤の「構想力」だけである。

AIがなぜ構想を立てられないのか?それは「方針を立てる」という行為が数学的に表現できないからである。換言すればその行為自体が「曖昧」だということである。人間とAIの究極的な差はこの「曖昧」を受け入れられるかということだと思う。

「そのへんに置いといて」という指示は、AIにとっては理解ができない。AIに対しては座標を指定し、指示を明確にする必要がある。一方で人間ならば相手の言葉の真意を理解し、行動の方針を立てられる。しかし、近年の子どもたちを見ていると方針を立てる頭の使い方=どうする?思考が苦手になっているように思う。

原因は複数あると思うが…
核家族化→親による囲い込み→自分で決断する経験の欠如
②学校の強制圧力→何でも指示される、言われたとおりにしないと怒られる→とりあえず指示をこなす
③親の勉強圧力→点数を取るためだけの勉強→追求心の封鎖

などのように、家庭と学校が大きいのではないかと思う。大阪の公教育のおかしさ(宿題、軍隊並みの強制圧力)はこれまでにも指摘されていると思うがこのような子どもを作った責任は学校・多くの学習塾であると思う。子どもたちがはっきりしていること以外は考えたくないならば間違いなくこの先、生きていけない。


◎では公教育はどうあるべきか?
まずはテストや宿題のように正解のハッキリしている課題を減らしてゆくことが重要。知識偏重から一刻も早く抜け出さなくてはいけない。そして次に子どもたち自身にスピード・責任感の必要な状況で判断する楽しさを体験させてあげること。学校の職業体験のような遊び半分みたいな気持ちじゃなくってもっと真剣に生産課題を担えるような状況を用意すべきではないのだろうか?いずれにしてもこのままの教育ではAIに負けてしまう子どもが育っていってしまうだけである。

 

 

 

管谷雅紀