日本からなぜ「ブラック校則」はなくならないのか

日本からなぜ「ブラック校則」はなくならないのか 
リンク)より転載

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■理不尽すぎる「ブラック校則」

 学校というのは特殊な政治になっていて、一般社会の論理が通じないような状況になっています。大人は疲れたと思ったらコーヒーやお茶を飲み、お菓子を食べ、タバコを一服し、外に伸びをしに行ったりします。しかし、高校までの学校ではそれは許されません。

 ストレス解消ができなくなると、当然、ストレスがたまっていきます。でも、ストレスがたまるにも限界がありますから、子どもは何らかの形でストレスを発散させるような行為に出る。その一つの手段がいじめや暴力になってしまうわけです。

 もちろん「ストレス発散=暴力」とはかぎりません。人によって、発散の仕方が違うのは当然です。しかし、いま述べたように、さまざまなアクションが禁じられているのが学校です。授業中は廊下に出るな。学校の外に出るな。買い物に行くな。食べるな。ゲームを持ち込むな。携帯を持ち込むな。そうやって禁止のルールが張り巡らされているなかで、クラスの二十数人、三十数人が毎日一緒に過ごさなければいけない。つまり、固定化された人間関係のなかでコミュニケーションをしなければいけない。
そういう集団のなかに、他人を上手にいじって笑いに変えることがコミュニケーションだと勘違いする生徒もいる。あるいは、誰かを殴ったり蹴ったりすることでストレス発散する人も出てくる。

 その意味で、校則というのは、ストレス発散の健全な方法論を子どもから奪うことによって「いじめでもしておきなさい」と言わんばかりの状況をつくってしまっているのです。

 こうした状況を解消するために、2人+αの担任制や理不尽な校則の撤廃が必要です。もう一つ加えれば、ブラックな指導が横行しやすい部活動を、地域に開いていくことも考えるべきでしょう。

■なくならない「規律訓練型」教育に潜むリスク

 しかし、日本では、まだまだこの観点が軽視されがちです。大人が社会の秩序に適合するメンバーを作り上げるために、子どもに対して必要なOSをインストールする。要は、規律を訓練して育てていく。その最たるものは軍隊で、日本の戦前教育は、ある時期以降、完全に軍国主義の兵士の予備軍を作るような教育に変わっていきました。

 だからこそ、日本では今でも全体行動や連帯責任など、軍隊の中で導入されていた様式が学校で導入されたままでいるわけです。校長先生がみんなの前で、生徒を立たせっぱなしで話す。回れ右や組体操、行進など、規律訓練的な風景はいまの学校にも至るところで見られます。

 このことは国際比較においても顕著にあらわれています。たとえば、日本ではカリキュラムがあまりに重視されすぎていて、「今月中にここまで進まなければいけないから、教科書何ページは飛ばします」といった授業がふつうに行われています。そのため、国際比較をすると、生徒全体がしっかりとその単元を理解しているかどうかを確認して次に進んでいるかという指標では、日本はかなり劣っている。

 また、個別の勉強が得意な生徒や不得意な生徒に対してそれぞれに課題を与え、その生徒の伸びしろに適切に対応しているかという質問に対しても、世界の平均と比べて半分以下ぐらいになっている。
つまり、全体のケアもできていないけど、個別のケアもできない。だから形式ありきで授業が進んでしまい、形式からあぶれる子どもは、放置されてしまっているわけです。

 このような個別具体的なケアよりも形式を優先する教育もまた、全体主義的な教育の名残りにほかなりません。

 学校を見渡せば、理不尽なことはいくらでも見つかります。しかし、理不尽なことを変えましょうと提案すると、全体主義が好きな教育者は「それでは、子どもが温室で育ってしまう」と反論する。社会に出たら理不尽なことがたくさんあるのだから、子どものうちに、そういったものに耐えられる力を身につけさせるのが教育だ、と。

 でも、これは順序が逆さまです。むしろ温室で育て、おかしな社会に出たときに、「こういう社会では死んでしまいます」と異議申し立てができるようにしなくてはいけないはずです。ブラック企業は当たり前のような感性を育てて社会に出すのではなくて、ブラック企業って本来あってはいけませんよね、といえるようにするのが、近代の理念に則った教育のはずです。

(後略)

 

 

 

紀伊谷高那