課題を持つことから始まる「学び」のダイナミズム

「課題を持つことから始まる「学び」のダイナミズム」(リンク

教育デザイン室長の竹内です。スーパーサイエンスコースで採用している「探究学習」、あるいは付随的に派生した「創作学習」で必要不可欠な要素は生徒が各自の課題(研究テーマや創作モチーフ)です。この学びは特定の課題にウェイトを置くスタイルであるため、生徒や保護者が不安(ないし不審)感を巻き起こします。

その理由は至極、簡単で、現行の日本の学校教育カリキュラムが極端な「総花主義」に陥っているからです。アレもコレも何でもできた方が好ましいと、日本人の多くがそう考えてしまうようです。しかし、考えても見てください。ホントに世の中で1人の人が1人でアレもコレも知っていて、できなければならないのでしょうか? それでは、人が集って共同体を作っている意味とは、いったい何なのでしょうか? 

私は、日本の学校で取り組んでいる教育活動は、十分に設計された痕跡もなく、学びの効果を吟味されたこともなく、ただ漫然と年々歳々、繰り返されてきただけに過ぎない・・と考えています。それが「人を育てる」「教育」という事業に値する姿であるのか、重大な疑問を感じます。その結果、その矛盾に気づき苦しんだ者ほど脱落し、平気で自分の魂を売り渡せた者がのさばり、社会を汚してきたように感じています。

いつまでも学校教育がこんな状態で、果たして構わないのでしょうか?

では、どうしたら学校教育は本来の「人を育てる」機能を取り戻し、社会を「浄化」できるのでしょうか? 

私の考えはこうです。各自が各自のテーマを発掘することです。これが先に来るべき条件です。多くの人は「ろくすっぽな考えもなしに」、それでは人間が偏ってしまうと盲信しています。しかし、事実は逆です。偏りがあると自覚した人間ほど、バランスを取るように掛けます。足りない部分は自分で何とか補正しようと意識します。こうして学びのダイナミズム(躍動感)が起こります。自転車が左右に倒れかかりながら、前進していく様子とも似ています。

アレもコレも万遍なく学んだのでは、それこそ凸凹がないため止まったままです。万遍なく知識を習得した人が、ある日、突如として何かに目醒めるとでも思っているのでしょうか? そんな仕組みでも、あるのでしょうか? 平らなモノは平らなままのはずです(竹内 準一)。

付記:
次世代教育プログラム「PX2」は、青少年なら相手を問わず一定の効力を発揮すると期待できます。そのような仕掛けがあるからです。しかし、ある程度、自分の目標を設定し、実践し始めている生徒が対象となるならば、学んだコトを直ぐ活用する目的があるためスムースに実践活動に取り組めます。果たして、日本の"真っ平ら"な学校教育カリキュラムで育った生徒と、スーパーサイエンスコースで自分自身の探究課題を持つ生徒と、果たしてどちらがPX2プログラムが与えるヒントを有効活用できるでしょうか?

今一度、問います。どれも万遍なく"真っ平ら"に学んだ人と、何かに特化して学び、かつ足りないモノを頭の片隅で意識できる高校生と、高等教育や実社会は、どちらの高校生を欲しいと考えるでしょうか? 

そもそも、このような議論が日本のどこかで行われた痕跡はあるのでしょうか? あったなら是非、私にその事実を教えてください(竹内)。

 

 

 

白海