教えてもらえる環境に慣れてしまうと、自分で”気づける”人にはなれない

教えてもらえる環境に慣れてしまうと、自分で”気づける”人にはなれない
リンク)より転載

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■教えられることに慣れた人間は、自分からは気づけない

記事の概要は、美大での最初の課題として出されたデッサン(対象物の形取り)で、指導もないまま12時間ぶっ続けで取り組まされた末、筆者が以下の点に気づけたというもの。


★がっつり対象物と向き合って、時には距離を置いてじーっと見つめてみるだけで、正しいと思っていたことが、ぜんぜん違っていることに気づく。
★違っているなと思った時は、一カ所がおかしいのではなくて、全体が少しづつ違っているから、全体に手をつける必要がある。
★教えてもらうだけでは力はつかず、長い時間をかけて自分で「気づいた」時はじめてそれは自分の力になる。

普通12時間もデッサンさせられたら、さすがに気が滅入るものと思いますが、その「ただのデッサン」にどれだけ向き合えるかで、これまで見えてなかったものが見えてくる。その過程が記事の中で鮮明に書かれています。

特に、社会人経験のある筆者が、これまでの仕事で常に答えだけを求め効率的に物事を処理するやり方に囚われていた中、それとは真逆のプロセスをデッサンで経験することで、細かな違いや微妙な狂いに気づいていく。

書き終えて完璧だ、と思っていた自分の絵の至る所に対象物との違いを見つけ、いかに普段自分の見ているもの・感じていることが正確でなく緻密さに欠けるものかを思い知らされます。


「描き方を教えるのは簡単だ。でも、大事なのは自分で気づくことだ。教えられることに慣れた人間は、自分だけの力で同じことができなくなっていく。気づく目を持つには、対象物と徹底的に向き合う時間が必要なんだ」

自分で気づけるようになったことで、授業の前に言われたこの言葉がすっと入ってきたそうな。

特にここで気になったのは、「教えられることに慣れた人間は、自分だけの力で同じことができなくなっていく。」という一文。あれっ、この「教えられることに慣れた人間」って、学校で授業を”受けさせられてきた(受け身だった)”全ての人に当てはまるんじゃね?と。

教えてもらえればできたことも、教えてくれる人がいなくなった途端、何もできなくなってしまうというケースは学力関係なく確かにあるなと。結局どうしていいかわからず、周りがやっているような同じことを繰り返し、自分で考えなければいけない、ということにも気づけない。

授業の中で、考えさせる教育も大切だけど、そもそもの問いに気づかせるっていう教育も大事だよな、と改めて考えさせられます。

■教えてもらえる環境に囲まれて育つ、とは

こればっかりはいつの時代も変わらないと思いますが、学校は勉強を教わる場所であり、親に代わって先生が勉強や人間関係の面倒を見てくれます。

ただ1点、昔と違ってきているのは、放課後でさえいまの子供達は塾や習い事で”教えてもらえる環境”に身をおく時間が増えているという点です。受験戦争や学歴社会、グローバル化などにより、子供の将来を案じた親が、それこそ周りの子もやっているからと塾へ通わせる。

特に最近、都心で子を持つ親御さんと話す機会がかなりあったのですが、小学校の低学年からすでに塾・習い事で放課後が埋まっているという家庭が少なくありませんでした。もちろん、塾などを否定する訳ではありませんが、行かせた結果、どんな学力・知識を得られるかといった以上に、どんな考え方をする子に育つかにも注目しておくべきかと思います。

塾によっても、徹底的に管理した中で学ばせるのか、それとも多少の自由度をもって自主的に取り組ませるスタイルなのか。子供は教えられて当たり前、何でもまずは詰め込まねば、となってしまうと、子供が本来持っている純粋な好奇心や素朴な疑問を閉じ込めてしまう一因になるのではと感じます。

問いを解けるようになることはもちろん大事ですが、その問いが自分にとって本当に解くべきものなのか、それを自分で気づけることも非常に重要です。

情報や選択肢が増えていく中、もしかしたらこれは自分のしたいことじゃないかもしれない、別の方法が向いているかも、と気づかせてあげるには、”教えてもらえる環境”だけに閉じ込めてしまってはいけないのだろうなと。
 塾や習い事に通わせる一方で、遊びや自由な時間もしっかり与えながら、その中で何かに気づく、気づかせる工夫をバランスさせねばいかんのだなと感じました。

違いのわかる大人になるには、違いに気づける子供から、的な。

 

 

 

紀伊谷高那