「暗誦」こそ言葉の教育の真髄

言葉を扱うプロ同士による対話、その中に、国語教育に言及している部分がありましたので、紹介します。今から43年前の著書ですが、タイトルは「詩の誕生」であるにも関わらず、冒頭「詩が死んでいく瞬間」という章から始まり、実作者の体験から掘り下げられています。

大岡信 谷川俊太郎「詩の誕生」(昭和50年刊)
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谷川 日本の教育ということで考えてみると、心的な面というのは、感想文を書かせるとか、自分の気持ちを詩に書きなさいとか、いろいろとあるんだけれども、言葉の形の面はわりあい軽視されていて、ほとんど教育されていない。たとえば、子供たちがわらべ歌とか言葉あそびとか、今ならテレビコマーシャルとかいう形で日々発散しているエネルギーを、国語教育は全く汲み上げていない。また、暗誦させるってことが、いまはほとんど行われていない。江戸時代とまでいわなくても、教育といえばほとんど暗誦だった時期があったと思うのね、ところが、われわれが教育を受けた時代にはすでに、暗誦というのは馬鹿の一つ覚えのように思われて軽視されはじめた。いまはますます軽視されていて、ほとんど暗誦を聞くことがない。言葉の教育としてこれはとてもおかしなことなんだ。現実に子供たちは、テレビのコマーシャルなんかは実によく暗誦していて、それを発音するのを自発的に楽しんでいるでしょう。コマーシャルというのは言葉としてなかなかおもしろいものも多いし、音韻的なおもしろさを持ったのもあるからね。しかし、テレビのコマーシャルはあくまでコマーシャルにすぎず、ほんとうの言葉の教育とはちょっと違う。暗誦をやらなくなったということは、言葉の、ひいては詩の、ある大事な一面をまったく無視していることだと思うんだよ。

大岡 暗誦はほんとに大切なんだ。なぜこの単純なことがわからないのかといつも思うね。学校でそれをやろうとしないことに、なにか巨大な陰謀的悪意を感じるくらいだよ。小学校の教科書に載せている詩なんかでも、リズムを重んじた作品があまりないんだ。子供たちが思わず何度でも繰り返して読んで、覚えてしまいたくなるようなものが、あまりにも少ないね。

谷川 暗誦させるということが、子供の自発性を損うとか、機械的であるとか、そういう愚かな教育観が、戦後とくに強いんだな。

大岡 絵の教育でも、そういうことがあるよね。自分が感じたとおり、思ったとおりに描きなさいというやり方。ある時期までは、子供は面白半分に塗りたくっていて、子供特有の色感でいける場合もあるんだけれども、そこから先へは伸びない。子供には、鉛筆の削り方とか、線の引き方、円の描き方などをしっかり教える方がいいと思うんだけれども、それはやらないんだよ。会津八一さんが、書についての文章で言っているんだけど、会津さんは書を習いにくる連中に、毎日毎日、縦の棒と横の棒と丸だけ書かせたっていうんだな。半年でも一年でもそれをやらせる。そして、縦横の棒と丸とが自由に書けるようになると、どんな字でも書けてしまうということなんだ。会津さん自身、散歩のときとか電車を待っているときなど、持っているステッキの先で、しょっちゅう地図に円を書いたり線を引いたりしていたらしいね。そういう基本の訓練というのが、おれは、とても大事だと思うんだ。

谷川 現実を頭でつかむのではなくて、声でつかむとか、手ざわりでつかむとかしないと、世界とはこういうものだという現実認識が浮き上がったものになってしまう。詩というものはそういう世界認識に拮抗するものであるはずだから、拮抗すべき世界認識が頭でっかちでふわふわしていては、詩は成り立ちようがない。

大岡 ものはよく知っているけれども、中身はとても臆病で、自分をさらけだすことなんかができない子がふえているのじゃないかね。

 

 

 

春野うらら