道徳の理念とかけ離れた「修身科=悪玉論」の実体

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道徳の「教科化」は、安倍晋三内閣主導で強引に導入されたという批判もあるが、歴史的には正確ではない。1945年の敗戦後、教育から修身科が無くなって以降、道徳の「教科化」は常に議論されており、いわば「戦後70年」を通底する歴史的課題でもあった。

 では、なぜ道徳を「教科化」する必要があったのか。その直接的な理由は、1958年に設置された「道徳の時間」の「形骸化」にあったといえる。道徳教育は、人間教育の普遍的で中核的な構成要素であるとともに、その充実は今後の時代を生き抜く力を身につけられるよう一人一人を育成する上で緊急な課題である。道徳授業のこうした「形骸化」は、学校教育が子供たちに対する教育の責任と役割を十分に果たしていないということであり、同時にそれは、「人格の完成」を目指す教育基本法の目的の実現を妨げていることを意味していた。

 こうした道徳授業の「形骸化」の基盤には、戦後日本の社会に蔓延(まんえん)した「道徳教育アレルギ―」が影響していることはいうまでもない。それを象徴するのが、「修身科の復活」「価値の押し付け」「いつか来た道」という戦後日本で繰り返し唱えられてきたステレオタイプの反対論である。

 ところが、「修身教育の復活反対」を声高に主張する人に限って、修身科のどこが問題なのかという質問にほとんどまともに答えられないし、そもそも修身教科書を読んだことがないというのが実態である。批判の対象である修身教科書を読んだこともない人たちが、何の疑いもなく「修身科の復活反対」を声高に主張する。

 これ以上の無責任なことはないが、この種のお粗末な反対論は戦後日本の社会にあふれてきた。私は、こうした根拠の乏しい感情的な批判を「修身科=悪玉論」と称しているが、「修身科=悪玉論」こそが、戦後の道徳教育を「形骸化」させ、「思考停止」させている大きな要因であるといえる。 

 もっとも、こうした思考停止は、教科化の積極的な「推進派」にあっても同じである。彼らは、修身科が過去の「遺産」であるというが、はたして何が「遺産」なのか答えられない。中には、道徳の「教科化」さえ実現すれば、いじめや不登校、自殺などの教育問題が魔法のように解決するといった楽観論も少なくない。
こうした主張は根拠に乏しく、「感情的」であるという点で、「修身科=悪玉論」の主張と表裏を成している。しかも、両者に共通しているのは、「道徳は教えられる」「価値は押し付けられる」という道徳教育への素朴な「信頼」である。

 しかし、道徳教育はそれほど簡単でも単純でもない。誠実や親切という価値を教えれば、子供たちが誠実になり、親切になるわけではない。愛国心を教えれば、すぐさま子供が愛国心を身につけるわけでもなければ、戦前の「少国民」に変貌するわけでもない。

 それにもかかわらず、戦後日本は道徳教育を「賛成か反対か」という感情的なレベルの政治論に押し込め、あるべき道徳教育の理念、内容、方法といった本質的な課題の検討は妨げられてきた。「賛成か反対か」の単純な二項対立の議論は、結局は政治的なイデオロギー論にたやすく回収され、教育論としての議論を希薄にした。こうした状況から生み出されたのが「道徳教育アレルギー」である。

 歴史を創造するためには、決して過去を切り離して考えることはできない。真の創造を実現するためには、過去を厳しく批判し、過去を否定的に媒介することが必要である。たとえ誤った過去を持ち、悲しい歴史を担うにせよ、こうした過去を否定的に吟味し、検証することで初めて真の創造が達成されるはずである。

 その意味で、戦後の道徳教育は、戦前の修身科を否定的に媒介することに明らかに失敗した。戦前と戦後とは、哀れなまでに遮断・断絶され、修身科は感情的に「全否定」されることで戦後へと継承されることはなかった。それが「修身科=悪玉論」の実体である。

 しかし、私たちは歴史を検証せず、歴史から学ぶという視点を欠いては何も生み出すことはできない。また、歴史を深く多角的に検討することなしに、新しい教育の創造はありえず、あるべき道徳教育の展望を開くことは不可能である。

今後の道徳教育にとって必要なことは、「賛成か反対か」の単純な二項対立の議論に終始するのではなく、過去の修身科の功罪を学問的に検証し、未来の道徳教育の展望を切り開く努力を重ねることである。

 以上の点を踏まえれば、道徳の「教科化」は、道徳教育を政治論から解放し、教育論として論じるための土俵を形成するために必要な制度的な措置であったと評価できる。

 「特別の教科 道徳」の設置によって、私たちは子供の道徳性に正面から向き合うことが可能となり、その教育として当然の関わりは、必然的に政治的イデオロギーの入り込む余地を格段に減少させるからである。

 実際、「特別の教科 道徳」の設置によって、これまで繰り返されてきた「賛成か反対か」の議論は明らかに後退し、教科書、指導法、評価のあり方といった授業の本質に関心が注がれ始めたことは間違いない。ここにこそ、道徳の「教科化」の歴史的な意義が認められる。

 ところで、2014年10月の中央教育審議会答申は、今後の道徳教育のあり方について、「特定の価値観を押し付けたり、主体性をもたず言われるままに行動するよう指導したりすることは、道徳教育が目指す方向の対極にある」とした上で、「多様な価値観の、時に対立がある場合を含めて、誠実にそれらの価値に向き合い、道徳としての問題を考え続ける姿勢こそ道徳教育で養うべき基本的資質である」と明記した。
ここに至ってもなお、道徳の「教科化」が「修身科の復活」「価値の押し付け」であり、「いつか来た道」に至ると批判するのは自由である。しかし、それならば、せめてこの答申の言う道徳教育のあり方に言及して具体的に批判すべきである。そのことで初めて議論は成立する。

 「賛成か反対か」の二項対立の議論は不毛であり、何より道徳的ではないことにそろそろ気づくべきではないか。感情的な議論に時間を空費する余裕は、今の教育にはない。

 

 

 

直永亮明