学びというものは、自分の知らない自分への冒険の旅である。「学習するコミュニティに夢を見て」

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「学習」には2種類ある

僕は学習にはそもそも二つの種類があるのだと思っていて、「学ぶ」と「勉強する」をここではあえて使い分けていきたいと思います。先に区分けを明確にするために、この2つの言葉の勝手な定義からしてみると、
学ぶこと = 自分が深掘りしたい問いについて、主体的に探求すること
勉強すること = すでに誰かが知っている正解について、早く理解すること。
私たちはつい「学習」という言葉が使われるとき、勉強のイメージがつき過ぎていて、つまらなそう、いっぱい暗記しなきゃ、間違うと恥をかく、といったシーンばかり思い出してしまうのではないでしょうか?でもちょっと立ち止まってみると、小さい頃に「あれなーに?」「どうして海はしょっぱいの?」といった質問攻めをして親から「そんなことより静かにして」と言われたことが誰でも一度はあると思います。人はそもそもとても好奇心の強い生き物なのだと。このように、人がここまで発展してきたのはこの知的好奇心を元に「学習」しまくった結果なのだと思うと、何かを知りたい、学びたいという欲は、人の根幹なのだとも僕は思っています。

人間の好奇心は、どうしてなくなるのか?

『モモ』や『ネバー・エンディング・ストーリー』を書いた作家、ミヒャエル・エンデの問いに「なぜ言葉を理解していない赤子が、言葉を覚えれるようになるのか?(そこに意味を見いだせるようになるのか)」というものがあるのですが、犬も赤ちゃんも、言葉が話せないという点では同じなのに、なぜ人間だけが言葉を、その奥にある意味を理解できるのかは本当に不思議です。この違いは人間の「好奇心」が桁外れに強いことにあるのだと思うのです。
(犬もとても賢いと思いますよ!)ではなぜ僕らは大人になるにつれて、そんな好奇心をなくしてしまうのか?それは「自分の問い(不思議に思うこと)について学ぶことよりも、他者の期待に応えるために、他人から迫られて勉強ばかりに時間を奪われてしまう」からだと思うのです。「学習性無力感」という言葉があります。例えば2m飛べるノミを高さ50cmの透明な箱の中にいれて、ずっと天井に頭を打ち続けると、箱から出した時に50cmしか飛べなくなるという実験がありますが、これはノミが「50cm以上飛ぶとよくないことが起こる、または自分は50cmしか飛べない」ということを学習した結果というのです。僕たちは大学まで含めると20年くらいの時間、ずっと「自分で問いを持つことは時間の無駄」であって「早く暗記して、なぜ勉強するのかの問いを持つよりも単語を一つでも覚えること」ばかり学習していきます。自分で問いを探求するということに対して、僕らは無力感を覚え、無駄だという感覚ばかりを学習してきてしまっているのです。

心を伴う知、知性
現在AIの話などが盛んで「人工知能」という言葉があります。しかし人工知性とは言いません。知性と知能の違いはなんでしょう? それは「知性」は心を伴う知であるのに対して、知能は心を伴わないあくまで機能でしかないということです。エクセルの計算などは知能が進化していけばできるようになっていきます。
しかしながらあなたにとって価値ある人生とはなにか、といった問題については、知性を磨かないといけない。自分の内側、自分の心がどう感じるかを理解するためにこそ、僕らは他者であったり外界と接点を持ち、そこから学習するのです。
僕のおじいちゃんは仏師(仏像を彫る人)だったのですが、仏像を彫るという行為は、木から仏を取り出す行為だそうです。
僕は人も同じように、「自分のしたいこと」や「好きなこと」というのはほっといても内側から湧き出てくるというよりも、たくさんの社会や他者に触れて自身を削ってみて初めて内側に現れてくるものというイメージが強いのです。
学ぶということはまさに、自分の内側にいる自分を、自分で掘り出していく作業のように捉えています。だからぜひ、まだ好きなことやしたいことがない人、おぼろげだという人、自分にとって豊かな人生とはないかを探求してみたい人は、学び続けてほしいと思っていますし、そういう人と話すことで僕自身ももっと学びたいといつも思っています。

 

 

 

 

匿名希望