自分と同じような、不登校に苦しむ人のためになる仕事をしたい

ある機会があって、かつて不登校であり、現在は通信制だと思われる高校に通っている生徒と話をした。不登校時に、母親に胸の内を打ち明けたところ、それを真正面から受けとってもらい学校に通わない選択を認めてもらったため、活力を維持したまま現在に至っている。

普段から、顧客とのやり取りや人材指導などを主な仕事にしている私は、その人の能力のうち、どこか健全でどこが欠けているかについては、ほぼ一瞬で判断できるのだが、その会話の中で感じたことは、彼は相手を捉えた受発信などの人間関係や、社会に対する主体的な思いや、その追求力についても、まったく問題がなく、見るからに健全な人材だった。

これは驚きで、いままで社会でいわれてきた、関係不全や適応能力の低さからくる不登校という固定観念を見直す必要があると強く感じた。

その中でヒントになったのが、

『自分は、仲間関係がうまくいかないから不登校になったのではない。ただ、学校という空間で意味感じない勉強を、延々強制的にやらされていることに耐えられなかたから』

という発言だった。

今学校で教えられているのは時代遅れの近代観念と環境破壊の根源ともいえる西欧科学だが、これを、中身のおかしさにも気が付かず、生徒を奴隷のようにあつかい、強制的に教えることだけに専念する教師を目の当たりにすると、そこから脱出して、もっと意味のあることをやりたいと思うのが当たり前で、健全である。

他方、幼少期からの母親の囲い込み等で人間関係力が向上せず、仲間ができず孤立して不登校になる人材もいる。しかし、より大きな外圧は、学校の強制圧力の方なのだから、生徒はみんな、中身が狂っている観念を強制的に勉強させられるという外圧と、関係圧力の2つの圧力を受けており、健全度が高い人材ほど、強制圧力に対する拒絶反応が大きいということだと思う。

そうなると、現在の制度に固定された学校はすぐには変わらないので、社会課題としては、上記のような健全な人材を受け入れ、社会で必要とされることを学ぶことができる場の創出であることがわかる。

そして、先の彼は、

『自分の体験を生かし、自分と同じような、不登校に苦しむ人のためになる仕事をしたい』

ということも言っていた。

このような人材をつくる、社会で必要とされることを学ぶことができる場ができてはじめて、指導的人材が増えていき、その結果、現在の学校制度も塗り替わっていくという流れができるのだと思う。

 

 

 

本田真吾