なぜヤル気のある若者ほどアッサリ仕事を辞めるのか ゆとり世代の謎

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かつての日本は貧しかった。

国を作る人を育てようとしていた明治時代も、軍事国家のための子供を育てていた昭和のある時期も、荒廃した国土を復興させる人材を求めていた敗戦直後の時代も、経済を成長させる人を育てようとした昭和中期も、ずっと貧しかった。
貧しい国から豊かな国を目指しているときの教育システムは、画一的でよかった。
ボトムアップが目的である。
個々に優秀な人物を少しずつ出すよりは、集団全体の基礎能力を上げたほうがいい。集団の力で勝つ。いわば軍隊式だ。
やや劣った者たちを平均まで押し上げることで全体の力を強くする。上を押さえ、下を上げる、そういう教育システムになる。(本来は、上を押さえる必要はないのだが、〝ボトムアップしつつ上も伸ばす指導〟にはものすごく高い能力が要求されるため、なかなかそうはいかなかった)。
詰め込み教育である。

詰め込み教育から個性教育

豊かな国をめざしていて豊かな国になったのだから、次の目標をたてたほうがいい。
しかし「豊かになったんで、じゃ、いろいろ変えます」とは宣言しにくい。どこが豊かなんだという声への反応はむずかしい。
とりあえず「いままで懸命だったからすこし緩める」という姿勢と、「とはいえもっと上の豊かさをめざす」という別の姿勢を抱えたまま、やっていくことになった。
1990年代以降の社会になんかもやもやを感じるのは、ひとつはこういう矛盾を抱えているところであり、なおかつ大きな方針の転換なのに言葉されなかったところにある。
そういう流れのなかで、とりあえず教育は「詰め込み教育から脱却しよう」ということになった。教育界だけが〝ゆとり教育〟と言語化したので、あとで、必要以上に強い風当たりを受ける。
当時、「詰め込み教育から脱却しよう」「個々人がそれぞれの特性を伸ばす教育をめざす」という提案に、みんなさほど反対しなかった。意見としてみれば、べつに反対するところがない。
詰め込み教育から脱し、個性教育が徹底されることになった。
ただ、現場はすぐには反応できない。
転換にともなって大量の新戦力が投入されるならともかく、いままでの戦力で何とかしてくれ、と言われるばかりである。なかなかむずかしい。
性教育の場合、生徒みんなが自分の個性を把握して、それに合わせて学ぶことができたなら、それは素晴らしいものになる。
でも、無理だ。
そもそも、自分で自分の個性を把握できるものではない。他人との関係性のなかにしか、個性は発見できない。ふつうの子供にはそんな能力はない。教師は全生徒とそこまで深く対応しているひまがない。
どうしても、勘が良く、聡い子だけが新システムに順応することになる。ゆっくりした子だけではなく、ふつうの子までも抜け落ちていってしまう。

知らず、上下の幅を広げ、二極化をすすめる教育になってしまった。誰もそんなことは望んでいなかった。

◯どうみても無茶な要求

そもそも本当の個性は、自分ひとりで認識できるものではない。
学校だと教師が見つけていくしかない。教師が生徒全員の特質を適確に指摘できれば、見事な個性教育が成り立つが、現実としては無理である。誰ひとりとして見つけられない教師だっているかもしれない。
そのため、それぞれの生徒個人に、自分の特性を何とか自己申告させようとした。

ひとつ採られた方法が「あなたの夢は何ですか」という質問である。

「あなたがやる気を持って取り組めるものは何ですか」という質問でもある。
自分に選ばせる。自分で選び、そこを進め、という方式である。かなり無茶だとおもうが、決められたことだから、みんながんばるしかない。個性教育とは言い難いが、しかし、詰め込み教育でないことはたしかである。
結果、人と対立しないやさしい世代が育った。
人を押しのけて上昇していくのは得意ではないかもしれないが、彼らの融和力は見事である。彼らをどう活躍させるかは、上の世代にかかっている。ゆとりだから、とただ揶揄していればいいというものではない。

◯やる気のある若者には気をつけろ

そもそも、その仕事(作業)をやりたいです、と言ってきたやつには気をつけたほうがいい、と私は強くおもっている。私個人の経験則だ。
うちのアルバイト学生を新しく決めるときは、私が事前に何人かの知り合い学生に目星をつけておいて、そのあと直接に依頼するようにしている。それが基本である。
ただ、ときどき、アルバイトがやりたいです、と自分で申し出てくるやつがいる。やる気のある学生さんだ。そして、この自分でやりたいです、と言ってきた学生は、いままでのところ全員、途中で自分の都合でやめていった。ここ十数年間、ずっとそうである。
強制された学生は仕事から逃げないが、自主的な学生は逃げる。
これが私のなかにある学生アルバイトの法則である。
おそらく、うちの作業が(マスコミ関係ということもあり)おもしろそうだとおもって、やりたいとおもったのだろう。しかし、マスコミ関係であろうと、発表されたものが冗談じみたものであろうと、現場の作業はただの作業である。それに気づくと、辞めてしまうようだ。
おもしろいとおもって始めたのに、おもったほどおもしろくなかった、ということなのだろう。だから、辞める。学生の気持ちを想像するとわかりやすい。でも、現場としては面倒である。
ひとつの例外もなく(ここ十数年で、のべ20から30人のあいだくらい)私から指名した子はほぼ卒業まで働き、自分からやりたいと言った子は必ず途中で辞めていった。
どうしてもひとつの仮説を抱かざるをえない。
「やる気のある若者には気をつけろ。」
やる気のある若者は、やる気が折れたら、辞めていく。やる気は、あまり大人が相手にする素材ではないということだ。
大人が求めているのは、投げ出さず最後まで淡々とやり遂げる力であって、不確定な将来の自分を不確定にアピールする力ではない。

 

 

 

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