「日本にだけは住みたくない」“海外育ちの子”が感じる生きづらさ

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「海外で子育て」。この言葉を聞いてどのような印象を持つだろうか。私たち夫婦(共に日本生まれ日本育ち)は現在オーストリアで子供2人を育てているが、日本で子育てをする知人からは「子育てしやすそうでいいね」と言われることが多い。

 実際にこちらで子育てをしていると、国からの支援は充実しているし、以前、「子育てがつらい国、日本。皆を苦しめるその『空気』の正体」という記事にも書いたが、日本で子育てをしている時に感じていた「親は子供が社会に迷惑をかけないように管理すべき」という空気もなく、社会に望まれているという安心感の中で子育てができる。

 このような「親側の視点」からの前向きな海外の子育て情報はメディアでも近年よく取り上げられるようになった。しかし上の子が10代半ばに差し掛かった今、私たち家族は、日本ではまだ取り上げられることが少ない「海外で育つ子供側の視点」からの様々な悩みに直面している。中でも特に、海外で育つ子供に対する日本の「排他性」への悩みは深い。

(中略)

日本人は「言語」にしか興味がない

 例えば、アメリカからオーストリアに移ってまだ間もない頃のこと。日本にいる親族と久しぶりに会った際、挨拶してすぐに親族の1人が上の子に「アメリカではOopsって本当に言うの?」と聞いてきたのだ。上の子が戸惑いながら「うん」と言うと、「へー、そうなんだ」とニヤニヤ笑ってその会話が終わった。

 その後も、夏休みに日本に滞在する際などに、主に大人から「これ英語でなんて言うの? ドイツ語でなんて言うの?」と一方的に聞かれるという体験を繰り返している。そして多くの場合、そこから海外の文化や歴史またそこで何を考えどう生きているのかについて話が発展するのではなく、上の子への興味が外国語が話せるという部分にしかないかのように言語に関する話だけで終わってしまうのだ。

 一方、今住むオーストリアではこのような経験はとても少ない。例えば、上の子の学校には生まれてすぐにカナダに移住しオーストリアに戻ってきたオーストリア人のクラスメートがいるが、その生徒に皆が尋ねるのはカナダの文化や暮らしといった点ばかりだ。その生徒に質問する形でカナダについて皆で議論するという授業が行われたこともあるとのことだ。
同様の授業は、上の子に質問する形で日本についても行われ、他の国にルーツを持つ生徒に対しても行われたとのことである。また、学校に限らず、こちらで出会った人が上の子に日本に関して尋ねてくるのはその多くが生活や文化についてであり、たとえその質問が言葉に関するものであっても、文化の一側面としての質問である場合がほとんどである。

 このように、国外で育つ子供にその土地の言葉の質問ばかりしたり、子供が国外で育つということへの意義を外国語が話せるようになるという部分に強く偏って見出そうとするのは、日本特有の現象なのである。

「サードカルチャーキッズ」の苦悩

 この日本特有の現象には、私含め多くの日本人が持つ言葉へのコンプレックスや国際意識の低さが関わっているように思うが、私がここで強調したいのは、海外で育つ子供に外国語が話せるという部分に偏って興味をぶつける行為は、人生を左右するレベルでその子供を傷つける危険があるという点だ。これは決して私たち大人が、知らなかったからで済ませていい問題ではない。

 まず前提として、子供は大人と違い、自身のアイデンティティを形成する人生の極めて大切な段階にある。そして日本で見落とされがちなのが、日本にルーツを持ちながら海外で育つ、といった多文化間で育つ子供は、日本で日本人の親の子供として育つ、といった単一文化内で育った子供に比べて遥かにそのアイデンティティの形成過程が複雑という点だ。

 このように多文化間で学齢期を過ごす子供は、サードカルチャーキッズ(TCK)とも呼ばれ、単一文化内で育っただけでは成し得ないレベルで多文化間を柔軟に行き来できる大人に成長する可能性を持つことが知られている。

 しかしその一方で、自身を取り巻く異なる文化をそれぞれ独自に消化し、文字通り「第三の文化」を自身の中に築くようにアイデンティティを形成しなければならないため、アイデンティティの形成に苦労するという特徴も合わせ持つ。

(中略)

 このようにアイデンティティの形成に苦しむ子供に対し、言葉を話せることにしか興味がないなど、ルーツのもう半分を置く文化に無関心でいることは、その子供のアイデンティティの形成に混乱を与えるだけでなく、その子供の存在の半分を無視するような排他的な行為なのだ。その結果、上の子は深く傷つき、将来日本に住んでもTCKである自分は受け入れてもらえないと思うに至った訳である。

排他性を「放置」する日本の問題

 ここで、欧米など海外でも人種差別によって日本人というルーツを否定しているのに何が違うのかという疑問があるかもしれない。確かに実際、上の子も人種差別には苦しめられている。しかし同時に、こちらでは上述したように、日本について言葉以外の質問を多くされたり、異文化を理解するための授業が学校で行われたり、多様な背景を持つ人を受け入れる動きも目に見えて強い。このことが上の子にとっては、差別はあっても自分の居場所もどこかにあるという希望につながっているのだ。

 どの社会にも排他性はある。日本の問題は、その排他性を軽視し社会として放置しているところにある。そしてこのように排他性を放置する社会は、外から見ると社会全体が排他的であることと同義なのだ。

 海外での子育てを通して私は、子供に海外生活を強いて多くの苦労を与えている自分の身勝手さや親としての責任を痛感すると同時に、海外で新たな可能性を育む子供達を「異質なもの」として排除する日本の排他性に危機感を覚えている。グローバル化の進むこれからの時代、私たちは持てる想像力を最大限に働かせ、多様な背景を持つ未来ある子供達に希望を与える存在でなければならないと強く思う。