日本の大問題。自分の頭で考える子ばかりがいじめられる妙な空気感

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■集団圧力に負けない、正しく考える力とは
小学生や中学生の「いじめ相談」を受けていますが、子育ての相談にのることもあります。その中で、学校文化、いわゆる日本独特の問題につきあたることがあります。つまり、欧米では問題にならないのに、日本では問題になるということです。それは、価値観の問題でありますが、「集団圧力」という空気が支配する問題です。

少し前のことです。2学期が始まってすぐ、ある公立中学生男子のお母さまから、相談がありました。息子さんは、成績優秀で英語とピアノが得意ですし、スポーツもそこそこにできる子なのですが、すこし頑固なところがあります。

お母さまは、仕事休みの日にたまたま中学校のグラウンドの横を通りかかり、自分の息子さんが、体育大会の集団演目である、演舞というか集団ダンスの練習をしているのが目に入りました。そこで息子が参加してはいるのですが、手足をふる程度で、いかにもいやいや付き合っている様子で、参加しているとは言い難い姿を見たのです。そんなことをしているのは自分の息子だけだったそうです。

指導の先生も冷たい視線を送っていますし、周囲の子も遠まきにしており、関わり合いたくない様子です。きっと何度も注意されたのでしょうが、指導にしたがわなかったのでしょう。

「このままでは、体育の成績が悪くなり、希望の高校受験に失敗してしまう」と、お母さまは思ったそうです。その都市では、高校受験に内申点がかなり重要視されており、英語や数学がよい成績でも、音楽、美術、体育などの内申点が「1」だと志望校入学が難しいのです。

本人はお母さまに、「やりたくないから」と言うだけです。お母さまはオロオロしてしまい、担任の先生と話をしたようですが、「中3という、この時期に信じられません。彼のやる気のなさの問題です。家庭に問題があるのでは?」と言われてしまい、泣き崩れてしまいました。

子どもの頃に面識のあった子どもだったので、私は、下校時に偶然を装って通りがかったお母さんの友達のおばさんを演じて、本人にストレートに聞いてみました。彼は「だって、ソーラン節だよ。北海道の民謡ではないですか。僕は昨年の先輩たちの演舞を見て、3年になってすぐクラスで話して、まとまったから全体に提案したんだ。この地方の音楽を使った郷土愛にあふれたものにしようって。一度は話し合いで、クラス代表が集まった全体の会議でそれが決まった。でも、先生たちが嫌な顔をして。みんな先生たちの顔色をうかがって去年と同じにした。くだらないから、やりたくない」。

なるほど、一応、理由があったわけです。「でも、集団のダンスなら、君一人がやらないことで調和が崩れて、台無しになってしまうし、運動だと思って割り切ってやれば」と言うと、彼は「中学生最後の思い出に、記念になるようなものを…という目的で熱心に話し合ったのに、例年通りじゃあ意味がないし、意味がないってことで、僕は筋を曲げたくない」と言い張ります。そこまで言うなら良いでしょう。先生には、彼の主張は伝わっていたようなのですが、生徒たちみんな、特に他のクラスの人達には伝っていないようでした。

私が会った時には、彼ひとりだけで下校していましたし、カバンがいやに汚れていました。理由を聞いてみると、体育大会の練習がはじまってから、友人たちは彼を避けるようになり、教室では物が隠されたり、様々ないやがらせ、ハラスメントを受けているようなのです。

彼は「たとえ、知らないところでカバンが蹴られて白くなっていても、それを見たところで先生たちは知らん顔さ。僕は先生に逆らっているから。いじめはダメの法治主義でなく、集団圧力という人治主義なのさ。これが日本という国なのさ」と言います。

とても頭の良い子です。そして、“我一人行く” ある意味、見上げた根性です。このような学生はめったにいません。

そして、ルールや手順を遵守しながら討論をかわすでもなく、長いものに巻かれろ、で先生の意向や集団の空気で決まることへの理不尽さをよく分析しました。彼なりに、考えに考えて出した結論なので、ダンスをやらない自由を選ぶ以上、自己責任をとらねばなりません。成績が悪くなっても仕方ありません。

実は、彼は幼稚園から小学生まで、お父様の仕事の関係で、欧州各国で教育を受けていました。そのため、納得するまで討論し合いたいのです。空気が支配する、日本の学校集団文化には馴染めないのでしょう。

しかし今回の件は、学校も本人も双方、度を越していると、私は考えました。私は、お母様にこのことをお伝えし、お父様と交えて話し合いをして、学校に、「たとえどんな理由があったとしても、いじめやハラスメントは許されない。ハラスメント行為をやめるよう指導をしてほしい」と申し入れをするようにお勧めしました。その結果、いじめ行為は無くなりました。

日本人から見たら、ただの我がままに見えるかもしれません。チームワークを乱す、悪いヤツかもしれません。しかし、学校は思春期の青年たちに「なぜ、ソーラン節なのか」を少なくとも説得力を持って説明する責任はあったでしょう。また、民主主義はさまざまな意見を大切にします。反対意見の相手の人権も守るという観点からみたら、この事案は特にアフターフォローも必要でした。

さらに大きな視点では、「人権」を守る、ということが、「法治主義のもとでの民主主義でなければ、守られないのだ」、という永遠性のある真理を伝えるエピソードになっています。

いま香港では、大学を卒業したばかりのアグネス・チョウさんら民主活動家が、過去のデモ行為について、裁判で有罪とされ収監されました。本来、効力が及ばないはずの「行為の後につくられた法律」によっても裁かれるのではないか、と懸念されています。むずかしい言葉で言えば、「法律の不遡及(ふそきゅう)の原則」に則っていないということです。それでは、法治主義の国ではなく、人治主義の国ということになります。このような大人の世界の現在進行形の「いじめ問題」に対し、民主主義の国アメリカならどのような意見を発するのでしょうか。もしかしたら、今ならば、「もう自由はないので、空気読め」なんて、言い出すこともあるかもしれません。

価値観の違いについては、私たち日本人も身近な問題から大きな問題まで、ぶれることなく正しい選択や判断ができるよう、考える力を身につけたいものです。

 

 
直永亮明